さらに車を進めると、言葉を失う壮絶な光景が飛び込んできた。
津波の凄まじい威力で、鉄筋コンクリートや鉄骨などの堅牢な建物が瓦礫の中で、様々な方向へ倒れていた。澄み切った青い空とコバルトブルーの海には、全く似合わない光景がそこにはあった。
私たちは邪魔にならない場所に車を停め、ヘルメットを被り、建物に近寄って詳細を観察したが、支持杭ごと引き抜かれて倒れた建物、まるで小枝のように簡単に引き千切られた鉄筋、さらに地盤が下がり、足元が水没する建物など、見る限りでは設計ミスや施工不良があったわけでもなく、人が長い歳月を経て築き上げた建築を嘲笑うかのような自然の猛威の爪跡だけが残っていた。
気がつくと、私と数名は車の停車場所から離れた場所まで来ていたが、残りの社員は未だ車の周辺をうろついている様子が瓦礫の向こうに見えた。
「折角、視察に来たのだから・・・」と、後になって問うたが、想像を超えた被災地の惨状と、ここで命を失った被災者のことを考えると、カメラを向ける気持ちになれなかったと異口同音に答えが返ってきた。
「私も神戸の時は盗み撮りしているような気持ちになったので皆の気持ちはわかるが、この悲劇を二度と繰り返さないために、今こうしてここにいることを考えて欲しい。」とだけ伝えたが、少し頷いただけで、それ以上言葉は続かなかった。
今しがた通って来た坂道を戻りかけた辺りにある一軒のコンビニが通常通り営業していた。そのわずか数10メートル手前が津波で生死を分けた分水嶺になったと地元の人は話してくれた。
夕方、近くにある普通高校の下校時間と重なり、コンビニにたむろする茶髪の生徒や友人同士で帰宅する生徒たちと遭遇した。
普段通り、高校生がいる。そこにはいつもと変わらない日常がある。しかし、一歩手前に起ってしまった非日常の世界。私たちはそのどちらをも肯定しなければならない。今現実に起こっていることなのだから。
宿泊先の旅館に当社の役員と親交のある仙台在住の建築家小山公一さんが訪ねて来られた。現在小山さんは、被災地に残った家屋の被災状況の判定の仕事で福島・宮城を掛けまわり、八面六臂の活躍をしている。小山さんは、持参してきてくれた地元の日本酒で一献傾けながら3.11から今この瞬間までのことを語ってくれた。
「私は建築に携わる人間として、できることから、ひとつずつやるだけです。」
できることからする。この当たり前のことが今被災地で最も求められている、それが被災地と寄り添うことだと小山さんは言った。
それを余所に復興プランを机上だけで語り始めた学識経験者や政局を睨みながら復興支援の御旗を振る政治家が目立つ。
私たちが直面する未曾有の事態の中で、最も問われているのは心が寄り添うこと、その底流にある人間力だと思うだが。